「引っ越しのカサイ情報漏洩事件」池上宣久
「引っ越しのカサイ情報漏洩事件」 池上宣久
□問題編
電話が鳴った。狭い事務所に明石以外に人はいない。明石は受話器を取った。同時に部屋の外で歓声が上がった。逆転されたか?
「はい。迅速丁寧、引っ越しのカサイです」
「引っ越しの見積りをお願いしたいのですが」
明石は慌てて机の上のメモ帳を手元に引き寄せ、胸ポケットからボールペンを取り出した。客は急いでいるのですぐに来て欲しい、条件が折り合えばその場で発注すると言う。 今月の営業成績がいまだゼロの明石にとって嬉しい見込み客だ。
「今仕事先に向かっている途中で、その仕事先に来てもらえると助かるのですが…」外からかけているようで、受話器の向こうで踏み切りの音がかすかに聞こえた。
明石は、仕事先の住所と客の名前と携帯の電話番号をメモ帳に書き写しながら、心の中で軽く舌打ちをした。住所が明石の担当地区ではなかったからだ。 本来ならすぐに地区担当者の勝田に引き継ぐべきだった。先月も獣田の仕事を奪って大騒ぎを起こしたところだ。だが、手前ぇこのままゼロだと首にするぞ、 と笠井社長に胸倉掴まれたのが昨日のことだ。ええい、ままよとそのまま電話を続けた。
客は仕事先に三十分後には到着し、そこに三時間はいるらしい。明石は頭の中で素早く計算した。引っ越し技能コンテストはあと三十分ほどで終わるだろう。 聞いた住所は船村の住いに近い。以前に彼を車で会社から送った時に三十分ほどかかったから、一時間後には行ける。しかし、明石は家から車でジャージのまま出社していた。 一旦帰宅して着替えなければならない。帰宅するのに三十分。家からだと客の仕事先まで一時間はかかるか。
明石は今から二時間後の五時に伺う約束をして、電話を切った。
「どこからの電話ですか?」ドアが開いて、事務員の連城リリ子が入って来た。
「いや、ちょっと」担当地区を侵す決意の明石はメモを手で隠しつつ、くちごもる。
「仕事っぽかったぞ」向かい合せの机の下から、恐ろしく背の低い銚子がのっそり立ち上がってきた。
「わっ。そんなとこで何してるんですか?」
「ここ涼しくて寝やすいんだよ」銚子は明石ににんまり笑いかけた。
「それより井口さん見かけませんでした?船村・権藤・勝田チームが今終わったところで、もう社長チームの番なんですよ」
「いや見てないなリリ子ちゃん。俺寝てたけど。で、順位はどうなってるの?」
「まだかろうじて銚子さんとこがトップですよ」
明石の勤める「引っ越しのカサイ」では、年に二回春と秋に「引っ越し技能コンテスト」を行なっていた。この日が秋の大会で、折角の休日を潰しての開催である。 四階建ての本社ビルで行われ、午前に一階の倉庫から荷物を屋上に運び上げる「搬入の部」を、午後に逆に運び下ろす「搬出の部」を行ない、トータルの所要時間を争うのだ。 「引っ越しのカサイ」には、引っ越しの実務担当が二人一組で四チームいるのだが、現場以外の人間も引っ越しの実務に精通していなければならないという社長の方針で、 これに営業の明石と勝田と獣田と事務員の連城がそれぞれ振り分けられて三人ずつのチームに編成された。最初に競技を終えた坂東・銚子・明石チームが叩き出した数字は まだトップの座を守っているらしい。
「そうか。じゃあ今夜の酒は豪勢にやれるかな」優勝チームには社長から金一封が与えられることになっていた。
連城と銚子が部屋を出て行き、明石は書棚から地図を取り出した。その時、窓に目を向けて、ぎょっとした。窓の外に獣田と猿野が立って明石をじっと睨んでいたからだ。 先月のことがあって以来、獣田は明石を恨んでいて、隙があったら客を奪うと宣言していた。猿野の方は聾唖者で読唇術を会得しており、人の顔を凝視するのが常ではあったが。 二人の所属は堂本チームで、明石たちの後に競技を終えていたはずだ。それからずっとそこに立っていたのだろうか。
二人が立ち去るのを見届けて、明石はメモに書いた住所を地図で探し出し、見つけたページをコピーした。一枚目の濃度が濃すぎたのでそれはゴミ箱に捨て、 濃度を薄めたら紙が詰まり、三枚目で綺麗なコピーが取れた。そのコピーを四角くたたみ、ちぎったメモ用紙と一緒にズボンのポケットに入れた。
明石は事務所から廊下に出て、倉庫に向かった。途中で後ろから井口が追い抜いて行った。井口の前の勤め先が金属部品の研磨工場で、指先で微細な凹凸を感知できることを 自慢していたのを思い出し、明石は何となく不安になって事務所に戻った。
メモ帳を見直す。明石は筆圧が強い方だ。斜めにすがめると、紙の表面に淡い凸凹が見えた。これに鉛筆の芯を斜めに当てて表面を塗り潰したら、字が浮かびあがりそうだ。 明石はメモ用紙を十枚ほど一挙に剥がし、シュレッダーにかけて細断した。
続いて、ゴミ箱から二枚のミスコピーを探し出し、これもシュレッダーにかけようとしたが、途中で引っ掛かって止まってしまった。コピーもシュレッダーももう寿命が近いようだ。 こういう時は、元OA機器メーカーのサービスマンをしていた堂本に頼るのだが、余り目立ちたくない。明石は紙を強引に引っこ抜き、手ですだれに切ってゴミ箱に捨てた。
コンテストは社長チームの逆転優勝に終わった。気合いの入った社長は、家具を壁や階段に当てまくっていたが、それを指摘する者は誰もいなかった。
明石はすぐに会社を出ようとした。板東が呼び止めるので振り返ると、いきなり胸ポケットに手を突っ込まれボールペンを取られた。
「返してもらうよ」忘れていた。出勤簿に名前を書くのに板東に借りたままだったのだ。
「すみませんでした」頭を下げて、明石は車に飛び乗った。
帰宅し、背広に着替え、メモ用紙と地図のコピーを上着のポケットに移し変え、あなたどこに行くの夜には子供たちと食事の約束がと追いすがる妻を、 仕事だこの契約が取れないと俺は首になるのだと振りほどき、明石は家を飛び出した。
目的のビルを見つけたのが、ちょうど五時だった。近辺には十分前に着いていたのだが、ビルが老巧化して取り壊し寸前で人が入れないように柵で囲まれていたため、 まさかこれではないだろうと、何度も前を通り過ぎていたのだ。
ビルに入り、部屋を見つけてノックした。
二時間後、明石は行きつけの居酒屋で飲んだくれていた。
「おかしいよ。な。絶対おかしいよな。約束の時間に行ったらさ、ごめん、今さっき別の引っ越し屋さんに頼んだところ、て言うんだよ。はあ?だよ。 じゃあ俺んところ以外の引っ越し屋にも見積り依頼してたのかと聞いたら、いやしていない、急に飛び込みセールスでやって来ただって。そんなわけねえだろ!」
明石はカウンターを拳で叩いた。
「そうだよねえ。潰れたビルに飛び込みなんてしないよねえ」
店主は困り顔で答える。この話、もう三回目なのだ。
「そうだよ」明石はコップのビールを飲み干して、「しかも、客はアート関係の人間で、廃屋ビルを使って何か面白いことができないかという思いつきで下見に行っていただけだったんだ。 そもそも客の引っ越しはそのビルとは全く関係ない場所で、そこにその時間に人がいたのも全くの偶然。そこへ引っ越し屋の営業が飛び込みでやって来て、 そしたらそこの人が引っ越しの見積りを待っていたなんて、そんな偶然があるか?ないっ!」
「だから、会社の誰かがその引っ越し屋に情報を漏らしたって言うんだね」
「名刺を見せてもらったら、すぐ近所の引っ越し屋だった。誰かが電話してそのビルで客が待ってると教えやがった奴がいるんだよ」
「でもその住所を誰も知るわけがないというのが謎なんだね」
「メモも地図も俺はずっと肌身放さず持っていた。電話を受けた時、住所名前電話番号は口にしなかった。具体的な事柄を言葉にしたのはアポイントの時間だけだ。 部屋にいた銚子さんとドアの外の連城にはそれは聞こえたかもしれないけど、メモの文字を見ることは絶対にできなかった。電話に盗聴器は仕掛けられていない。 先月に通販で盗聴器発見装置を買った社長が嬉しがって毎朝調べてんだよ。残ったメモ用紙もミスコピーも細断してゴミにした。その前に一度部屋を出たけど、 十秒も部屋を空けていない。誰かが入ったり出たりする余裕はないし、第一、ドアの前には俺がいたし、窓には内側から鍵がかかっていた」
「そのシュッレダーのさ、細く切ったのを探し出して並べ直したんじゃないかな」
「でもその場合シュレッダーを通っちゃってるから、元の凸凹はもう読み取れないと思う。地図の方は並べ直してどの町かというのは判るだろうけど、 俺は客のビルに丸をつけたわけじゃないから、そこまでだ。俺も色々と考えたよ。例えば、会社の電話の着信記録から電話番号を割り出して客を特定するとかね。 でも客の電話は携帯なんだよ。客はそのビルに急に行くことに決めたから、客側の関係者すらその時客がどこにいたのかを知り得ないとはっきり断言したよ。 俺が慌てて帰ったから、誰かが後を尾けたのかもと考えた。でもその引っ越し屋が来たのは四時過ぎだと言うんだ。俺の到着約一時間前だよ。判んねえ!」
明石はビールを手酌でコップに注ぎ、一気に飲んだ。
その時、明石から二席離れて、カウンターで一人で飲んでいた男が声をかけてきた。
「あの~。すみません。勝手に話を聞いていたんですけど、ちょっと宜しいですか?」
明石は濁った視線を男に向けた。
「はい?」
「その引っ越し屋さんにお客さんの情報を流した人が判ったと思うんです」
□解決編
明石は女の前に立った。
「君が犯人だったのか。貴子」
カウンターの男は、話を続けた。
「まず疑問に思ったのは、その情報を漏らした犯人はなぜ他の引っ越し屋さんに連絡したのかということなんです。明石さんの仕事を邪魔するだけなら、 引っ越しのカサイの誰かが営業に行けばいいのです。先月に仕事を取られた獣田さんでもいいし本来の地区担当の勝田さんでもいいでしょう。この二人が行っても、 明石さんは文句が言える立場ではありません。このままでは明石さんが同僚の仕事を取ろうとしたことも表沙汰にならず、当然受けるべきペナルティもなく、 次の機会があればまた平気で同じことをしようとするでしょう。まずはその場でとがめるべきです」
ぐうの音も出ない明石はとりあえず「ぐう」と言ってみた。
「ですから僕は引っ越しのカサイの従業員を疑う根本から疑うことにしました」
「でも社内の人間でさえ見ることができない俺のメモをどうやって外部の人間が見ることができるんだ?」
「それについてある考えが僕の中にすでにあるのですが、その前に聞きたいことがあります」
「何だよ?」
謎を解いてくれるという男に対して、明石は高圧的に答えた。
「明石さんが書いたメモ帳の形状についてなのですが、これぐらいの大きさで」男は両手で小さな長方形を宙に作って明石に示しながら、 「二百枚ほどが束になったのが糊でまとめられて」
「そうそう」明石があとを引き継いだ。「ボール紙の台紙に貼りつけられた、どこにでもあるメモ帳だよ」
「なるほど。分かりました。僕の思った通りです。犯人は、明石さんが書いたメモ用紙の、すぐ一枚下のメモ用紙に強い筆圧によって刻まれた凸凹の文章を、読み取ったのです。 恐らくそのままでは読みにくいでしょうから、鉛筆の芯で表面を塗り潰して凸凹を浮かび上がらせたのだとは思いますが」
「でも、それは俺がすぐに十枚まとめて剥がしてシュレッダーにかけたんだよ。あ、シュレッダーの調子が悪いっていうのを聞いて、実は細断されなかったとか思ってるの? 違うよ。あれ外から紙が細く切れていくのが見えるんだ。間違いなく細切れになった」
「細断されたのは元のメモ帳の三枚目以下の分でした。犯人が見たのは二枚目のメモです。三枚目にさえ字が浮かびあがりそうな凸凹が見えたのなら、 二枚目はもっとはっきりしていたはずです」
「だから、俺が事務所を出たのはほんの十秒ほどで、その間に人の出入りはなかったの。窓には鍵がかかってたし」
「例えばさ」店主が口を挟んだ。「事務所に銚子さんが隠れてたのを明石さんは見逃していたわけだから、もう一人隠れてたんじゃないの?」
「で、そいつが俺が部屋を出てる間に隠れ場所から出てメモを剥がしてまた隠れたって言うの?駄目」明石は顔の前で手を振った。「ホントにうちの事務所は狭いんだから。 他にスペースなんてどこにもない。違うよ。」
「私もそうだとは考えていません」男は首を横に振った。
「じゃあ、二枚目のメモを取れた人っていないじゃん」
「いました」
「それ誰だよ」
「あなたです」
明石は顔を顎から前に突き出して、「はあ?」
「あなたです」男は繰り返した。「あなたはメモ帳の一枚目だけを剥がしたつもりでしたが、そうではなくあなたは二枚をまとめて剥がしていたのです。よくあることです。 紙は薄くてくっつきやすい。メモ帳は大量生産で作られます。あの一冊一冊を一つずつ作るわけではない。もっと大きな紙を束ねて端を揃えて糊を塗り、 それを油圧の巨大なカッターであの形あの大きさにザックンザックン裁断していくのです。この時大きな圧が紙にかかります。市場に並ぶメモ帳は、四角の一辺は糊で固められ、 他の三辺はその圧のためにピタリとはりつき、まるで白くて四角い一つの固まりのように見えます」
明石は何かを言いかけたが、口を開いただけで何も言わなかった。
「メモ帳を一枚ちぎる。折り畳もうとしたら、ハラリと二枚に分離して、あれと思う。僕にも何回か経験があります。それに近いことでしたら日常茶飯事ですよね。 レジでお金を払って、お客さん千円札が一枚多いですよと注意されること。人数分のプリントを順々に廻していたはずなのに最後の人の分がなくて、 見直すと自分が二枚持っていたり。紙は薄くてくっつくのです。あなたは一枚だけちぎったつもりでしたが、二枚をちぎっていたのです」
「それはあり得るとして」明石は目の前の空のコップをじっと見つめなが言った。「でもそれじゃあ、その二枚目のメモもまた俺のジャージのポケットに入ったわけだから、 一枚目のメモと同じくやっぱり誰にも見る機会がないんじゃないの?」
「では明石さんは今その二枚目のメモ用紙を持っていますか?」
明石は背広のポケットから紙の束を取り出し、その中から一枚のメモ用紙を探し出した。
「いや。俺の書いたメモ用紙だけだ。やっぱり駄目だ。二枚目なんてないよ」
「なくて当然です。あなたはちぎったメモ用紙をジャージのポケットに収めました。そして帰宅して背広に着替え、ポケットの中身を背広に移し変えたのですよね」
「分かったあっ!」店主が叫んだ。興奮して明石の顔を指差した。「だからその時、二枚のメモは一枚目と二枚目に分かれてたんだよ。 車を運転したり歩いたりしたからその影響でポケットの中で紙が分離したんだ」
明石はポカンと口を開けた。
男は話を続けた。
「恐らくあなたはジャージのポケットに地図とメモを入れる時、メモの上に地図を重ねた形で入れたのではないですか?」
明石はうなづく。
「そしてジャージのポケットには元から色々な紙類が入っていた。それが普段からのあなたの習性ですよね。今の背広の中身もそうでしたし、 板東さんのボールペンを胸に刺したまま返し忘れたり、あなたは整理ができない人です。だから営業成績も悪い」
明石はもう言われるがままだ。
「帰宅し、ポケットの中身を入れ変える時、あなたはポケットの上側から中身を探る。まず地図が手に当たり、その下のメモ用紙が手に触る。 両者を引き出すとそれは地図のコピーであり客の住所を書き写したメモ用紙だった。あなたは何も疑わない。疑う理由がない。二枚を剥いだことに気づいていないのだから。 こうして、メモの二枚目がジャージのポケットに残りました。あなたの筆圧でくっきり文字が刻まれたメモ用紙です。鉛筆の芯で塗り潰さなくても読めるほどの凸凹が残っていたかもしれません」
明石は顔を両手で覆った。
「犯人は、貴子だったのか…」
「それが、奥さんのお名前ですか?」
明石は顔を隠したままうなづいた。
「あなたが出かけた後で、奥さんはジャージのポケットに残ったメモ用紙に気づいたのでしょうね。あなたは、仕事だこの契約が取れないと俺は首になるのだ、 と言って奥さんを振りほどいたと先ほど言われました。実際はもう少し詳しく話したはずです。外食の約束があったなら帰宅予定時間とかね。 しかもあなたが着替えた後にいそいそとメモ用紙をジャージから背広に移し変えるところを横で見ています。その上でメモの文章を読んだ奥さんにとっては自明のことだったと思います。 奥さんは住所から一番近い引っ越し屋を電話帳で探し出し、情報を伝えたのです。もし全くの勘違いで、メモの住所とあなたの向かった先が違っていても、 無駄足を踏んだ引っ越し屋が迷惑なだけで、奥さんは痛くも痒くもない」
明石は顔を上げない。
「女房怒らせると、怖いんだよなあ」店主が腕を組み、しみじみと言った。
男は声を和らげて、明石に言った。
「営業成績も大事だけど、その前にやるべきことがあるんんじゃないですか?少なくともこんなところで飲んでいる場合ではない」
明石は立ちあがった。
「大将。おあいそ」
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