「毒入り回転寿司事件」池上宣久
「海の幸」abiko masahiro
「深海朝食」長井正広
「どっちがどっち」保山宗明玉
「海乃幸殺人事件」池上宣久
「毒入り回転寿司事件」 池上宣久
□問題編
はまち、まぐろ、たい、いくら、えび、サーモン、とろ、あじ、ほたて、かんぱち、あなご、、、 新鮮な海の幸にあふれた回転寿司屋で、客の一人が毒の入った寿司を食べて死んだ。
「被害者の紅は回って来た皿を左手で取ってカウンターに置きつつ、右手の箸で一つを摘んで醤油皿に少しつけ、 隣りの客に『私、はまちが大好物で』と言いながら一口で食べ、直後に苦しみ出して床に倒れました。 皿に残ったもう一個を調べると、シャリとネタの間に粉末の毒が仕込まれていました。無味無臭で、即効性のある毒です。 被害者の死因もその毒でした。紅の醤油皿、お茶、ガリ、お手拭きから毒の検出はなく、 事件発生時に回っていた他の寿司にも毒は仕込まれていませんでした」
事件の翌日、刑事部屋で、二人の刑事が事件の検証をしていた。
「まず怪しいのは、握った板前、か」
「毒の入ったはまちは紅自身が注文したものでした。その時回転中の寿司の中にはまちもありましたが、握りたてを好んだのでしょう。 各席の前にインタホンがあり、ボタンを押すと厨房を呼び出して直接注文ができます。 板前が寿司を握り、注文品だと判るように皿の下にプラスチックの台をかませてレールに置きます」
「板前は、はまちを紅が食べるのを知っていたということか」
「厨房は客席と隔絶されています。回転寿司のレールは、すべてわっかにつながっていて、 そのわっかを長く伸ばして真ん中からグニッと曲げたUの字型をしています。その折れ曲がりの部分が厨房を通り、 そこで板前が寿司を供給しますので、注文の客が誰でどこに座っているかは判りません」
「とすると板前による無差別殺人になってしまう。でなければ他の客が犯人だ」
「紅はレールの最後、厨房に入る手前に座っていました。注文は大きな声でしたから、店内の客がそれを聞いた可能性はあります。 でも台に乗った注文品の皿を取って毒を仕込んでまたレールに戻すなんて、そんな怪しい素振りの客はいなかったそうです」
「毒は粉末なんだろ?毒を入れた容器か紙はどうした?」
「毒を入れた紙がレールの上から見つかりました」
「回転とともに移動してくれるのだから、いい捨て場所だな。誰が食べるのか判っている客には毒を仕込む機会がなく、 毒を仕込む機会のあった板前は誰が食べるのかが判らない、というわけだな」
「気になるのは、コップを置いたトレイが急に床に落ちて大きな音を立てたことがあったらしいんですよ。 客も店員も一斉にそちらに目を向けたといいますから、あらかじめ毒入りはまちを用意しておいて、 この時に皿を交換したとすれば犯行は可能だったかもしれません。 レールの上から先端にかぎ爪のついた長いテグスも見つかっています。 何者かがかぎ爪をトレイにひっかけておいてタイミングを見計らってテグスを引いた可能性はあります。 でもトレイが落ちたのは、紅がはまちを注文する前なんです」
その時、別の刑事が入って来た。
「諍屋という男が話があると言って、来てますよ」
「紅の隣りに座っていた男だな。何て言ってる?」
「犯行方法が判った。事件は無差別殺人ではなかった、と」
□解決編
紅三四郎は一人の女に惚れた。女は正義の味方なんて危ない職業は辞めて、と言った。三四郎は女のために堅実な事務職に就いた。 しかし仕事はうまくいかなかった。彼は算盤ができなかったからだ。電卓が世に出まわるずっと昔のことである。 仕事の処理が遅く毎晩仕事を残す彼は帰宅が遅くなった。結婚当初は欠かさなかった空中に赤い柔道衣を投げて一瞬で着る訓練にも時間を割けなくなった。 仕事ができないので出世もならず給料もずっと少なく、妻は段々三四郎を侮蔑し始め、彼のプライドはひどく傷ついた。(俺、紅三四郎なのに…) ある日、うらぶれた格好のケン坊がやって来て借金の保証人になってくれと頼んだ。人のいい三四郎は判こをつき、一ヶ月後にケン坊は失踪した。 三四郎は返済を肩代わりすることになり、生活は困窮した。しかし三四郎は寡黙に頑張った。一人息子が可愛かったからだ。 三四郎は本当はこんな生活から逃げ出したかった。でも自分を見上げる息子の尊敬のまなこを思うとそれはできなかった。 ある日、飼い犬のボケがボケて通行人の足を噛んで大怪我をさせた。その治療代で三四郎の借金はさらに膨れ上がった。 息子が中学に上がる年になり、学生服を買ってやりたかったが、その金もなかった。三四郎は思い余って道行くおばあさんの財布をひったくって逃げたが、すぐに捕まった。 袋叩きにあった。財布は拾ったもので交番に届けるところだったと言い抜けようとしたが駄目だった。家から妻と息子が飛んできた。 息子と目が合ったとき、三四郎の中で何かがプツリと切れた。気がついたときには彼は叫んでいた。 「お前のためにやった。お前さえいなければ俺は別の人生を歩めたはずなんだ。何だその目は。お前が俺をこんな人間にした」三四郎は警察署に引き立てられた。 しばらくして、拘置所に妻から離婚届が届き、三四郎は判こを押した。それ以来、息子とは顔を合わしていなかった。 出所した三四郎は身を粉にして働き、二十年をかけて借金を返済したが、完済した時には体を壊していた。ある時偶然三四郎は息子と再会した。 息子は見るからに悪どい人間に変わり果てていた。聞くと莫大な借金で切羽詰っていると言う。 「お前が俺をこんな人間にした」そんな息子の怨嗟の声を聞き、三四郎は死を決意した。彼は生命保険に入っていた。その保険金なら息子の借金を返済できる。 息子がトリックを考え、毒も用意した。
「自殺?!」
「はい。毒入りはまちを仕込むそんな怪しい素振りの人間いなかったというのですから、その機会はトレイが落ちて大きな音を立て、 皆の注意がそちらに向いたその瞬間しかあり得ません。かぎ爪のついたテグスがレールの上から見つかっていますから、 それが犯人の作為だと考えて間違いないと思うんです」
「それは判る。ただしその場合の問題は、その時点で紅自身がまだはまちを注文していないことだ」
「そうなんです。なぜ犯人は毒入り寿司を仕掛けた直後に紅さんがはまちを注文することを予測できたのでしょうか? それとも紅さんがその毒入りはまちを取ったのは偶然で、やはり無差別殺人なのでしょうか?でも無差別殺人だとしても、注文台の上に乗せてしまったことが解せません。 はまちを注文した人しか毒入りはまちを取ろうとしないでしょうし、もし誰もはまちを注文しなければ、板前によって廃棄されるか、 台を取り外されて他のはまちの中に混ぜられてしまいます。そうするとやはり無差別殺人にはなってしまうのですけど、でもそれでよいのなら、 初めから注文台に乗せないでレールに乗せればいいのです。それを注文台に乗せたということは、紅さんの注文を予測できたとしか思えません」
「予測できたということは、例えば紅ははまちの前に必ず食べるネタがあって、それを見定めて仕掛けたとか、かな」
「あと、サブリミナル効果を使ったとか、催眠術で特定の言葉やトレイの音がひきがねとなって、ハマチを注文させたとか、色々方法は考えられるんですけど、 でもどの場合も不確定です。たとえそのタイミングで紅さんがはまちを注文したとしても、もうすでに注文台に乗ったレール上の毒入りはまちを見てしまうかもしれません。 ああ、これは自分の前にはまちを注文した人がいて、これは自分が取るべき皿じゃないのだ、と思ってしまうかもしれません。 毒入りはまちを紅さんが取らず板前が廃棄してしまえば計画はまたやり直しですし、もし他のはまちに混ざってしまえば紅さん以外の客が取って食べてしまう可能性さえ出て来ます。 毒入りはまちがレールに乗せられて一周する間に紅さんが必ずはまちを注文し、その皿を取ってしまうことを間違いなく予測できたのはどういう人間なのか、 と考えると、僕にはもう一人しか思い浮かびませんでした」
「つまり、紅本人、ということだな」
「はい、紅さんは、絶対自殺だとは思われない自殺方法を実行したのでした」
事件は以下のように推移した。
紅は、まずレールからはまちを取って、毒を仕込む。
その状態で、流れてきた寿司を食べて死んだ、自分でその寿司に毒を仕込むことはできなかった、と証言してくれる客が隣りに座るのを待つ。
客が座り、空の注文台が目の前に流れて来るのを待つ。当然その間に他の客がはまちを注文していないのを確認しておく。 もし誰かがはまちを注文したらそれが注文客の手に落ちるまで待機する。
そして、あらかじめ仕掛けておいたテグスを引っ張ってコップのトレイを床に落とし、大きな音を立てる。 皆の注意がそっちに向いた瞬間、注文台に毒入りはまちを置く。本当は、注文台は目立つし、また無差別殺人の犠牲者であることを強調するために、 レールに乗ったはまちに毒を仕込みたいところだが、例え一周の間とはいえ、他の客がその寿司を偶然取ってしまう可能性を考えると、それはできなかった。
この時他の客なり店員に気づかれたらこの店での実行は中止する。
毒入りはまちが厨房に入り、また店内に出て来るタイミングを見計らって、隣りの客に聞こえるように、はまちを注文する。
毒入りはまちが自分の前に回って来た時、隣りの客に声をかけて注意を向け、その目の前で大げさに食べてみせる。
そして、死ぬ。
もし、他のお客が間違って毒入りはまちを取ってしまったら、これは放っておくこともできないので、 「俺が頼んだ寿司を取るな!」と食って掛かって取り返すつもりだった。当然この場合も計画は中止し、後日他の店で実行する予定だった。
本来なら、警察が来るまでの間に客の多くは店を出ていたはずである。持病の悪化か何かだと思われたら、警察への連絡自体が遅れる可能性だってある。 だから客の中に無差別殺人犯がいて、人の目を盗んで毒入りはまちを仕掛け、紅が倒れたどさくさに店を逃げ出したのだと思われるのが狙いだった。
それがたまたま隣りに座ったのが事件に鋭敏な男で、すぐに毒を飲んでのことだと判断し、客が外に出ないように店を封鎖した上、 警察に連絡するなどとは到底予測できなかった。だから店内に多くの客が残り、毒入りはまちを仕込むそんな怪しい客は一人もいなっかたなどという極端な証言結果が出て来てしまい、 そのためトレイが落ちたその時にしか仕掛ける機会がないことになってしまったのは、紅にとっては不運なことだった。
「海の幸」 abiko masahiro
□問題編
波は荒れていた。わたしはそれでもどうにかボートを桟橋に入れた。そこには1隻の、 この辺りでなら十分大型の部類に入るクルーザーと2艘の軽ボートが係留されている。そ の桟橋側のポイントを、わたしたちは「マリナー」と呼んでいた。かつての海仲間である 鯨本がここでペンションをやるといいだしたのは3年前。銛打ちの名人だった貝原は「海 の家だろ」といって笑ったが、わたしたちは3人はいい仲間だったので、ここを男の城と 決め、海に遊びに来る家族連れや若い男女や学生たちやを相手に第2の人生をスタートさ せたのだ。
ボートを括りつけマリナーからペンションへの小道へ入ったところで料理長の蟹江が 走ってくるのが見えた。小さくうねってはいるものの道は砂浜にコンクリートブロックを 埋め込んで作っただけのものだから、視界を遮蔽するものはない。蟹江の姿はずいぶん遠 くからも見えていた。「磯崎さん」と若い料理長は真っ青な顔でわたしのところまで駆け て来るといった。
「どうしましたか」
「大変なんですよ。泊まり客の学生が、死んで、……」
死んで? と問い返すわたしに、蟹江は、いや、といった。「殺されて」その蟹江の言 葉が終わるなりわたしは走り出した。散歩道の先にペンションの建物が見える。その右手 には岬に面したコテージがあり、そこは展望台になっていた。人だかりが出来ているのは その展望台のスペースだ。わたしはそちらへむかう。
人だかりに多く見られた顔は、一昨日から泊まっている大学生のグループの面々だっ た。何かのサークルの合宿だといっていた。わたしは昨日の午後、彼らをボートに乗せて 沖に出ている。泣いている女の子、青ざめている男の子。そのうちの一人が顔を上げてわ たしを見ると、あ、と声を上げ、昨日はどうも、と挨拶した。ひどく場違いな感じ。
「磯崎」
輪になっているなかから鯨本がわたしを呼んだ。声が震えている。わたしはそちらにむ かっていった。そのむこうに何があるか判っていた。蟹江の言葉を思い出す。鯨本の指し た先に男子学生が横たわっていた。血溜まりのなかで。それから制服を着た警察官がい た。「こちらは?」質問にわたしは「磯崎です」と答えた。鯨本がそのあとを引き継いで 「わたしの昔からの海仲間です、この辺りの海にはいちばん詳しい」それは、……と頷く 警官にわたしは、それほどでも、といいながら、鯨本に「貝原は?」と訊ねた。「いま買 い出しに行ってるんだが」といいかけたとき学生の一人が「あ、貝原さん」と小さく声を 上げるのが聞こえた。一堂の視線がペンションと反対の駐車場の方に向いた。傾斜を下っ てくる貝原の姿が見えた。
鯨本、貝原、わたし、戻ってきた蟹江、それから学生たちが男女取り混ぜ6人、それ と、……わたしは輪になった人びとの顔を見渡した。みんな固く口唇を噛み締めている。 殺人があったのだ、無理はない。学生たちの隣に3人組の、社会人なのか大学生なのか判 然としないグループがいた。わたしは自分の隣にいたそのうちの一人に、
「殴られたんですか」
と何気ない口調を装い訊ねてみた。「いえ」と若いその男は答えた。「背中を刺されて たそうです。銛のようなもので」
わたしは血溜まりに目を落とした。
「ああ、そうやった。磯崎さんと貝原さんにも聞いとかんと」と警官がわたしたちに顔を むける。
「何ですか」
訊ねながらわたしは、若い男とは反対の方にいた鯨本が震えているのに気づいた。
「これなんですわ」
警官が死んでいる男を差した。うつ伏せになって死んでいる男は、両手を頭の上に延ば すようにして死んでいたのだが、その右手の先にのコテージの床に血で文字が書かれてい た。「よう見てください」と警官に促されてわたしと貝原はその乱れた血文字(ゾッとし ない)を覗き込んだ。
「海の幸」
と書かれていた。鯨本が震えていた理由がわかった。貝原が「幸っていうたら鯨本の娘 さんが、……」といいかけてハッと口を噤む。鯨本の娘は幸(さち)だ。それで震えてい たのか。わたしは貝原の思慮の浅さに舌打ちしたい気分だったが、しかしそんなことはす ぐに調べれば判ることだろう。
「幸さんというその娘さんは?」
警官が訊ねる。「が、学校です」と鯨本が答える。ほお、と警官は頷く。
そのとき、わたしの隣の若い男が不意に口を開いた。
「その娘さんに、はたして銛が扱えるんですかね」
警官も含め、みんながその男の方を見た。
「その背中に刺されたのはかなり太い銛のようなものだと思います。重さも十分にあるも の、もちろん検視医の所見も必要ですが、それほどの重量のある凶器を刺して、引き抜く ためにはかなりの力が必要だと思いますが」
「幸はまだ、14だ」と鯨本が答える。
「あんた、お医者さんか何かか」
と警官が訊ねた。
「いえ、箱崎といいます。その学生さんを殺した犯人はこのなかにいる人です」
□解決編
誰もがその男の顔を見た。何をいっているんだろう、とわたしも思った。
「殺された学生さんの残した文字は、このなかにいる犯人を指しています」
箱崎はいった。探偵小説じゃあるまいし、と誰かが吐き捨てるようにいうのが聞こえ た。警官が、どういうことじゃ、と訊ねる。
「問題は、その『海の幸』という文字が指しているものが何なのか、です。もちろん何者 かによって刺された人間が残す最後の言葉なのですから、それは当然、犯人を示すもので しょう。直接的かどうかはさておいて」
「どういうことかね」と鯨本。
「僕が彼を刺したと仮定します、そのとき彼が、僕(箱崎)を示すような言葉を残せば僕 はそれを即座に消し去るでしょう。直接的に何かを残せば、それは自分が死んでしまった 後、犯人によって加工、あるいは消去される可能性がある、ゆえ探偵小説などでは間接的 な手掛かりが残されることもあるのですが、しかし」
わたしは黙って聞いていた。
「たとえ間接的であったにしても、それがやはり犯人を示す場合には、やはり刺した僕は それを隠すでしょう。はっきりと名前、ないしは手掛かりが示されていなくても、自分の 刺した人物が何かを残すというのは不安なものです。ゆえ、ダイイングメッセージがこう して残されるのは、犯人が遠くにいるのが確認される場合か、あるいは犯人がその場を立 ち去った後にもまだ被害者が生きていた場合に限られる、ここまではいいですか」
まあ、そうだわな、と警官は頷いた。貝原が不満そうに、それで、と促す。学生たちは 友人の死のショックがまだ拭いきれていないのか(それはそうだろう)何もいわずに、た だこの場の展開を見守るばかりだ。
「しかしそれでは矛盾が生じます。犯人が遠くにいても、立ち去ったとしても、それなら もうダイイングメッセージを消し去られる恐れはないのですから、直接、名前を書けばい いのです!」
誰かが、ハッとする気配があった。
「なのに殺された彼が名前を残さず、海の幸などという一見、意味不明の言葉を残したの はなぜでしょう」
「彼が犯人の名前を知らなかったからだ」
そういったのはわたしだった。
「そうです。ええっと、……」
「磯崎だ」
「ああ、そうでした。磯崎さん、そうです。彼は犯人のなまえを知らなかった。ちなみに 鯨本さん、この学生と幸さんとは面識があったと思われますか」
鯨本が強ばらせた表情のまま答える。
「いや、ないだろう。幸はペンションの仕事にはほとんど顔を出さないのでね。幸の名前 を知っているのは、ここにいる貝原と磯崎と蟹江だけだろう」
「当然」と箱崎は続ける。「これは幸さんの名前ではありえない、彼は幸さんの名前を知 らない。ここからは知ってるか知らないかの消去法です。彼は当然、オーナーの鯨本さん の名前は知ってる。蟹江さんの名前は知らない。それから貝原さんの名前は知ってる」
「なぜ?」わたしは訊ねた。
「彼の友人たちが」と箱崎は学生たちを見て「先刻、貝原さんが戻って来られたときに 『あ、貝原さん』というのを聞きました。ということは彼が知っていてもおかしくはない でしょう」
昨日、船で話したんだ、と貝原は弁解するようにいった。
「それから磯崎さん、あなたの名前は知らない」
「……」
「では、この残されたメッセージの意味です。蟹江さんか、磯崎さん、どちらが『海の 幸』なのか」
見ず知らずのものの可能性だってあるだろう、とは敢えて反論しなかった。見ず知らず のものが犯人であるなら『海の幸』などという言葉を書き残される可能性などないから だ。
蟹江は青い顔をしている。わたしは、どちらかね、と箱崎に訊ねた。挑戦的な口ぶりに なった。
「彼は書き順を間違った」箱崎はいった。
「このメッセージはある言葉の途中でした。彼が書こうとして果たせなかった文字は 『達』です。八画目はいちばん下の横棒ですが、彼はそこで間違い、先に縦棒を書いてし まった。そののち書く筈だった横棒と、それからしんにょうを書くまえに彼は息絶えた。 彼が書こうとしていたのは『海の達』、しかしこれでさえもまだ答えには至らない」
そのとき学生たちが、あっと声を上げたのを誰もが聞いた。わたしは鈍い目眩を感じ た。そうだったのか、と思った。彼らがわたしのことをひそかに何と呼んでいたかはわた しも知っていた。
「ダイイングメッセージが必ずしも完成された形で残るとは限らない、しかし、これは漢 字の特徴だと思いますが、漢字は完全な形に書き上げられなくても読むことが出来る。誤 読です。彼が告発しようとしたのは『海の幸』ではなく『海の達人』でした。磯崎さん」
鯨本も、貝原も気づいたようだった。
「ではここで海の達人とは誰か、2人います。まだ若い蟹江さんではない。1人は銛打ち の名人である貝原さん、そしてもう1人は『この辺りのことならいちばん詳しい』磯崎さ ん。多分、鯨本さんもそうなのかも知れないが、3人は昔からの海の男でそれぞれが名 人、つまり達人です。しかし先の条件から合わせると、彼が名前を知らなかった達人は、 磯崎さん、あなただけです」
「深海朝食」 長井正広
□問題編
深海探査を目的とした特殊潜航艇「ペンタグラム」では、料理長満干全席によるエビチリソース、アサリバター焼きなどの海の幸満載の深海ディナーが開催された。 皆、たらふく食って、満ち足りた気分で就寝についた。
だが、不幸はその翌朝訪れた。朝食の準備にいそしんでいた満干全席が食事室で何者かに刺殺されたのだった。
ガンガンガン。鋼製ドアを叩き破って入った一等航海士、T・ヒットマンが第一発見者となった。 ヒットマンは満干全席の服のすそをつまみ上げ起こしたが、すでにこときれていた。次に現れた航海医、古語三郎が抱きかかえ、もどかしげに胸元を広げた。 満干全席の胸元にはナイフが突き刺さっていた。死ぬのに時間はかからなかったろう。最後にあわをふきながら、二等航海士、海老沢海雄が現れた。 皆は惨状の究明に口角泡を飛ばしながら、ガンガン身振り手振りでやりあった。
そして、満干全席の体の下にダイイングメッセージとおぼしき紙切れが見つかった。そこには朝食のスパゲティのイカ墨で「こご」と書かれていた。 殺したのは古語三郎か?しかし、離れた場所にちぎられ、丸められた紙切れがあった。これを何とか広げて、「こご」と合わせると、「エビ」となった。 いやいや殺したのは海老沢か?
ダイイングメッセージは何を示しているのか? さてさて、満干全席を殺した犯人は?
□解決編「海の幸人間」
五人乗りの特殊潜航艇「ペンタグラム」は深海の海の幸を探査、身をもって味わうという特殊任務のために新たに満干全席をコックに迎え、探査に向かった! だが、料理探偵満干全席にも油断はあった。その深海海域の特殊なエビやカニには特殊なある種の毒が含まれていた!
至福の深海ディナーの夜、不幸が航海士たちを襲った(エビの異様な姿に味見すらする気が起きなかった満干と一人、 夜を徹して探査を行うためにディナーをとれなかった艦長、蟹田蟹蔵はべつにして)!
彼らは一夜にして、なぜかエビチリソースで見るも無残な蟹人間と化していたのだった! 深夜もがき苦しむ彼らのうめき声を聞き、蟹田は事態を察した。 しかし、蟹田はなすすべはなかった。悩みつづけた蟹田は翌朝、事態の収拾のために満干の部屋へ向かった。 だが、満干は何も気づかずに、すでに朝食の準備にいそしんでいた。
「こんなやつのせいで、かわいい部下が蟹人間に!!」
蟹田は満干に殺意をおぼえた。しかし、脳味噌まで蟹になってしまっただろう蟹人間が万が一にも犯人の可能性があっては、かわいそうだ。 そうだ、蟹人間がナイフで人を殺すことはあるまい!
蟹田はナイフで満干を襲い、「エビ」というダイイングメッセーシを残した。エビチリソースへの恨みもあったが、「エビ」を二つに破り、 丸めることで蟹人間には犯行不能だというメッセージを残した。せめてもの蟹たちへの思いやりだった。
蟹人間はその直後に入れ代わりに食事室に現れたが、蟹のはさみでは何とか服の端やらをつまんでは、泡を飛ばし、 はさみをガンガンと叩き合いながらコミュニケーションをとるだけだった。しょせんはただの蟹人間である。
そして、しばらくすると、犯行がただの自己満足で、蟹人間のせいにしたってどうってことないや、と気づいた蟹田が食事室に戻ってきた。 目の前の蟹たち、食ってみてもいいんじゃない、それは「マタンゴ」の誘惑に似ていた。わしも蟹なら幸せかな?
蟹田は皆を思いきり焼いたり、煮たりした。とれとれ、ぴっちぴち、蟹料理。等身大の蟹料理、蟹道楽も真っ青だ!「海の幸人間料理」だ!
・・・・そして、1ヶ月後、海上に、蟹にあふれかえった「ペンタゴグラム」が浮上した!
「どっちがどっち」 保山宗明玉
□問題編
(この作品には人肉嗜食趣味の者は出てきません)
若い男女2人はまさにミステリーゾーンに足を踏み入れつつあった。
山道で迷い、途方に暮れていた奇天可(キテカ)と翁藻(ヲキモ)を車に乗せてくれたのは、ハゲ頭で黒縁眼鏡、丸い顔の老人だった。助手席にその連れ合いが座ってる。
「お二方、こんな所で何してた?あの辺は妖怪とかが出るんだぞ」
老人の言葉に後部座席の2人は鳥肌が立った。あてのない旅ではあったが、野宿して襲われるような冒険はしたくない。
「私らが泊まる宿まで乗せてくよ。わしの名は歌羽弐無法(ウタハ・ニムホウ)、妻の経乃(ヘノ)」
経乃は奇天可と翁藻に会釈した。
午後6時過ぎ、4人を乗せた車は宿についた。宿の名は「海の幸」。地滑りの跡もある山中の宿のくせに、こんな名前なのだ。
宿には東西南北1つずつ、計4つの客室があり、それぞれ出入り口が中央のホールに面している。歌羽夫妻は東側の部屋に、奇天可と翁藻は南の部屋にチェックインした。 西側の部屋には睥倪地見世可(ヘゲチ・ミセカ)という30代の男性と、その息子、千里可(チリカ)が宿泊していた。 中央ホールから地下の温泉に降りることが出来、温水プールには貸しきり状態で長期逗留中の静寂緒(シジオ)という女性客がいた。 静寂緒は病気で片足をなくし、口もきけなかった。療養のために、1日中、温泉のプールに入りびたり、睡眠はプールサイドでとっていた。 ペットの牝猫、魑魅(チミ)を連れている。
疲れていた奇天可と翁藻は午後9時頃には熟睡し、翌朝、警察が来るまで眠り続けた。
警察は、空いていた北の部屋に殺人事件の捜査本部を設えたようだ。どうやら、昨日の深夜、この「海の幸」宿泊者の内の誰かが、同じく宿泊者の誰かを殺したらしいのだ。 客たちは外出を控えるように言い含められた。
「ねえ、奇天可、いったい何が起こっているの?警察に聞いても、何も答えてくれなかったわ」
翁藻は不安そうだ。
「よし、わかった。とにかく、情報収集だ。翁藻は中央ホールで、何があったのか調べてくれ。僕は天井裏から捜査本部をさぐってみる」
15分後、部屋に戻った2人は情報交換をした。
「ごめん。昨夜の内に誰か1人が単独犯に殺されたことしかわからなかったわ」
「上出来、上出来。僕の方の情報はね」
と、奇天可は報告をはじめた。
警部の前には2つの報告書があった。右の書類には死因は包丁による刺殺、ふとももの部分の肉がえぐりとられていた旨、書いてある。 左の書類には、死因はノドにホタテを大量に詰め込まれての窒息死、とある。間違って別の事件の書類がまじっているようだ。
「この書類、どっちがここのヤマなんだ?」
警部が聞くと、警部の後ろでホワイトボ-ドに何か書いていた部下の刑事が言った。
「……側が本件のです。すみません!」
刑事は続けて報告をはじめた。
「犯行は『海の幸』内部です。被害者の名前は……、女です。犯人の指紋が発見されました。犯人は……の部屋の男です」
「肝心なところを聞き逃してしまって、もうしわけない。動機も全然探れなかった」
「いいのよ。わかるわ。報告書が左右どっちだったのか、被害者が誰なのか、東西南北、どこの部屋の人が犯人なのか。 動機なんて、犯人は人非人だった、ってことでいいんじゃない」
「教えてくれよ」
□解決編
「書類は右側。刺殺の方ね。被害者は静寂緒さん、指紋が出たのは東の部屋の人、弐無法さん」
「えっ、それを判断するてがかりは何だったんだ?」
「奇天可はちゃんと聞いた通りに伝えてくれたんでしょう。なら、これで正解のはずよ。それより、指紋が検出されたのなら、警察が弐無法さんを拘束する前に、 動機を聞いておきたいわ。推測はつくんだけど、本人の口から確かめておきたいの」
好奇心にとらわれた翁藻に引っ張られるようにして、奇天可は歌羽夫妻の部屋に行った。
「弐無法さん、ちょっとお話しがあります」
ドアを開けた弐無法は椅子をすすめて言った。
「君たちか。立っていないで、さあ、どうぞ」
2人は弐無法から事のなりゆきを聞くことができた。
弐無法は50才も年の離れた若い妻、経乃を娶った。新婚当初はただ幸せな2人だったが、弐無法は自分の老いに経乃をつきあわすことを罪悪のように思いはじめていた。 そんなとき、この「海の幸」(うみのさいわい)の地下に、ずっと水中か水辺で過ごしている口のきけない女性がいることを知った。 弐無法はその女性、静寂緒を人魚ではないかと考えた。人魚の肉を食べると不老の身体を得ることができると言う。 実際に、片足のない静寂緒は、まさしく人魚のように見えた。弐無法は人魚の肉を少し切り取って食べようとした。 静寂緒は当然のごとく抵抗し、揉み合う内に殺してしまったのである。夫妻は、人魚を殺めてしまった罪をいさぎよく認めて、罰を受けたいと語った。
2人への告白の後、警察に呼ばれて弐無法は北の捜査本部に向かった。同様の告白を警察に対しても行うのであろう。
「思っていたとおりね。弐無法さんは静寂緒さんを人魚だと思い込んでいたのよ」
「人間だとわかってたら、食べようなんて思いもしなかったろうね。それより、さっきの、僕が聞き逃した部分を言い当てた方法を教えてくれよ」
「説明するわ。弐無法さんの車に乗せてもらった時から、私たちはミステリーゾーンに迷い込んだのよ」
「確かに、そんな雰囲気はあったな」
「出逢った人全員がこの異世界のルールでしゃべっていたことに気付いた?」
「うーん、ええと」
「俳句よ。みんな575で会話しているわ。警察の人もそうだわ。だから、奇天可が聞いてきた言葉に俳句のルールであてはまる字数の言葉をひろえばよかったのよ」
「……側が本件のです。すみません!」(答 右)
「犯行は『海の幸』内部です。被害者の名前は……、女です」(答 静寂緒)
「犯人の指紋が発見されました。犯人は……の部屋の男です」(答 東)
奇天可の頭には、そんな俳句クイズが思い浮かんでいた。
「わかった。でも、何がきっかけで僕たちはこの俳句世界に入ってしまったんだろう」
「ハイクよ。道に迷って車に乗せてもらったときに、私たちもハイカーの仲間入りしたとみなされたのね」
「そうか、それで、犯人のことを人非人だなんて言ったんだな」
俳人は部首にわけると「人非人」になるのだ。
「海乃幸殺人事件」 池上宣久
□問題編
登場人物表
海乃幸:元力氏。被害者。大柄。
浜地 :関西学院大学大相撲同好会OB。死体発見者。大柄な男性。
田井 :関西学院大学大相撲同好会OB。大柄な男性。12時以降のアリバイなし。
井倉 :関西学院大学大相撲同好会OB。小柄な女性。10時以降のアリバイなし。
勝尾 :関西学院大学大相撲同好会OB。大柄な男性。10時以降のアリバイなし。
「警部、えらく肩が凝ってますね。また難事件ですか?」
「うっ、ああっ、そこもちょっと揉んでくれる?諍屋先生。相変らず腕いいね」
「気苦労が多いからそう思うのですよ。で、どんな事件なんですか?」
「潮のひいた砂浜の真ん中で死体が発見された。潮がひき切ったのがお昼の12時で、死亡推定時間は1時を挟んで前後15分の間。 現場には犯人の足跡が残っているはずだけど、それがない。普通なら自殺で決着なのだが、心臓をナイフで一突き、 ほぼ即死なのに、ナイフを握った手に持ち直した跡があった。自殺に見せかけるために、犯人がナイフを被害者に握らせたような痕跡だ。 被害者には自殺の動機がないどころか、2日前から行楽で一緒に海に遊びに来ていた友人4人に殺害動機があった」
「首をちょっと前に傾けて下さい。被害者の足跡も残っていなかったのですか?」
「う~。被害者は元力士の海乃幸といい、潮がひき始める朝10時には浜へ行き、岩礁に座って絵を毎日描いていたらしい。 岩礁といっても幅2メートルほどの小さなものだがね、死体はその岩の上で発見された。だから足跡は残っていない」
「発見の状況はどうだったんですか?」
「友人の一人浜地が発見した。彼は宿泊している海の家の主人に『海の幸を採ってくるよ』と言って2時に出た。海の家と現場の砂浜との間には、崖と林がある。 通常は蛇行する林道を通るのだけど、干潮時には崖沿いに細い砂地が現われて、そこを歩けば砂浜への近道になる。 浜地はそこを通って死体を発見し、海の家に取って返して警察に連絡した。所轄の警官が到着した時、砂浜には浜地の往復した足跡しか残っていなかった」
「浜地が犯人じゃないんですか?往復の足跡は海乃幸を殺す時に残したもので、それを死体を発見した時の足跡だと主張しているだけなんです」
「浜地には1時前後のアリバイはない。でもたまたま2時少し前に崖下の砂地が始まる手前を横切った人がいて、その時足跡は残っていなかったと証言している」
「では、浜地は海の家近辺で海乃幸を殺し、死体発見の折に死体を現場に運び込んだのではないですか?」
「それも駄目だ。今言った2時前に足跡はなかったって証言した人、その直後に浜地が砂地に入るのも目撃している。 浜地は海乃幸を背負っていなかったし、死体自体に移動の痕跡がない」
「では、犯人は海乃幸と共に10時に岩礁に上がり干潮を待って、殺した。2時に浜地がやって来て犯人を背負って脱出したのです」
「それも駄目。林道を出たところに人がいて、1時に砂浜の岩の上の海乃幸を目撃している。その時海乃幸は生きていて、岩の上には彼しかいなかった。 それに浜地は腰を痛めていて人を背負って歩くのは無理だった」
「その時、岩と波打ち際までどれくらいの距離があったのですか?」
「約10メートル」
「それでは例え走り幅跳び同好会でも海に跳躍しての脱出は無理ですね」
「どちらにしてもそれは無理だな。沖合いで釣りをしている人たちがいて、砂浜に背を向けていたし距離もあったので事件には全然気がついていないのだけど、 10時から2時の間に岸に近づく舟は存在せず、装備していた魚群探知機によれば海の底を岸に近づくものもいなかったということだ。 また、1時に生きた海乃幸を目撃した人はベンチに寝転がって雲を眺めていた。釣りの人と同じく殺害の場面は見ていなかったのだけど、 空から現場に降り立った者も飛び立った者もいなかったと力説して証言してくれた」
「警部さんも、力入ってますね。でも、それでトリックが判りましたよ。後は犯人ですね。友人4人の特徴を説明してくれませんか?」
説明を聞き、諍屋は真相に達した。
□解決編
海乃幸は絵を描くのが好きだった。真っ白いキャンバスに自分が思うままに図柄を決めて、色を塗っていく。青い空を赤く塗り白い雲を緑に塗った。 彼の絵を見た人は皆首を捻ったが、そんなことは構わなかった。彼は絵を無茶苦茶に描かないと気がすまなかった。そうでないと充実した気持ちにならなかった。 ちょうどそれは彼に関わった他人の人生を滅茶苦茶にする時味わう気持ちに似通っていた。彼は人の人生を踏みにじる時にしか喜びを感じ取れない人間だった。 それは、父親が盗みを働いて警察に捕まり、母親が父親の借金から逃げるために彼をサーカス団に売ったあたりに遠因を求められる。 ライオンの餌にさえ事欠く貧乏サーカス団は事故を装って彼をライオンの檻に入れ食べさせようとした。命からがら逃げ出した彼はその時、 ライオンの餌にされかねない立場に絶対に生涯身を置くまいと決心し、彼の人生針路は確定した。弱肉強食である。 反射神経だけは良かった父親と大柄だった母親から譲り受けた素質を生かすため、彼は相撲部屋の門を叩いた。彼はその世界で独自の地位を築いていった。 番付けの下位に位置して、勝ち星の廻し合いを調整する役目である。その過程で彼は人の弱みを探し出す特別な嗅覚を身につけていった。 そして人の弱みを握り脅し屈服させるのがこの上もなく愉しかった。後援会の人間を騙すのは簡単だった。力士は正直だという思い込みがある。 それに乗じてタニマチの財産を食い潰し、その奥さんや娘を食い物にした。彼に弱みを握られた獲物の数は増え続け、彼は力士を続ける必要もなくなり、引退した。 そうして、今彼は絵を描いていた。思う存分絵を描いていた。二日前から四人の獲物たちと海の家に来ていた。 彼らが大学在籍時に入っていた同好会が彼のいた相撲部屋と親交があり、何度か会っている内にそれぞれの弱みを炙りだし、獲物のリストに加えたのである。 二日間ネチネチいたぶってやった。ああ、愉しい。彼は一週間前に偶然会った父親のことを思い出した。あいつもいじめ甲斐があった。恨みなんてない。 あいつのおかげで人生の真実に目覚めることができたと言っても過言ではない。その意味で言うと感謝したいぐらいだ。しかし彼は言った。 「お前が俺をこんな人間にした」ありもしない借金を言い募って、罪悪感を煽りたて、父親を自殺させるように仕向けた。確か今日がその日だ。愉しいな。
その時、四人の獲物の内の一人が、こちらに向かって歩いてくるのが見えた。
「ちょっと待った、諍屋先生。犯人が歩いてきたって?」
「そうです。岩までを往復した足跡は犯人のものでした」
「でも、その足跡は死体発見時の浜地のものだよ。足跡は二時までつけられてなくて、二時に浜地がその足跡を残しながら崖下の砂地に入って行ったのをよろず屋が目撃している」
「そうです。ですからその足跡は浜地のものでした」
「…何が言いたいんだ?」
「よろず屋さんは、浜地がそのままずっと歩いて現場の岩まで行って死体を発見し、戻って来るまでの一部始終を見たわけではない。砂地に入って行ったところを見ただけなんでしょ?」
「…そうだ」
「浜地は現場の岩までを往復したのではないのです。崖下の砂地の中間地点で折り返しているのです」
「…その先の足跡が犯人のものだと言うんだな」
「そうです。犯人はその中間地点から歩いて岩まで行き、海乃幸を殺してその地点まで歩いて戻って来ました。 一人の往復の足跡だと思われていたのは、いわば二人の人間がリレーした足跡なのでした」
「だとしても、どうなる?犯人はそこからどう脱出した?その前にその中間地点にどうやってやって来た?」
「やって来た足跡がないのは被害者も同じです。被害者は満潮の間に砂浜にやって来たのですから、足跡が残ってなくて当然です。犯人も同じ方法を使いました。 満潮の内に崖下にやって来て、その場で潮が引くのを待ったのです。これで、犯人の足跡は残らず、崖下の砂地のど真中に出現できます。 そして、一時を過ぎて犯人は動き出しました。岩に向かって堂々と足跡を残しながら歩き、殺害後、足跡の出発地点にまで戻って来たのです」
「そこまでは判った。あとは犯人の脱出方法だ」
「それも簡単ですよ。犯人は、そこで浜地の到着を待ちました。二時に浜地がやって来て、その地点で折り返すのですから、帰りの浜地の足跡を利用できます。 一方がもう一方を背負ったのです」
「浜地は腰を痛めて、人を背負うのは無理だから…」
「犯人が背負ったことになります。ここから導き出される犯人の条件は、大柄な浜地を背負える体力の持ち主で、潮がひき切る前からのアリバイのない者ということになります。 犯人は勝尾です」
勝尾は海を見るのが好きだった。
特にここの海。海乃幸にただいたぶられに来ただけの旅だったが、この海に出会えたのは僥倖だった。心が癒される。 勝尾は、満潮から潮がひいていき海が徐々に表情を変えていくのを見るのが好きだった。
本当は砂浜に座って見惚れたかったのだが、そちらにはずっと海乃幸が陣取っていたので、顔を合わせたくない勝尾は、海を歩いて崖下の真ん中にまで移動した。 ちょうどそこに腰をかけるのに適した窪みがあるのを彼は知っていたからだ。そこに座って彼は海を見続け、そうしながら、海乃幸のことを考えた。
弱みを握られて以来、かなりの金額を支払っていた。もう限界だった。
もう一度交渉してみよう、と決心がついた時、時刻は一時を越え、潮はひき切っていた。彼は砂地に降り立ち、海乃幸のいる砂浜に向かった。
交渉は最悪の方向に転がった。お金はないという勝尾に、海乃幸はでは妹の体を代わりに差し出せと言い出したのだ。勝尾の目の前が暗くなった。 気がついた時には、彼はナイフを握り、海乃幸を刺し殺していた。
勝尾はナイフの指紋を拭き取り、海乃幸に握らせ、誰にも気づかれてないのを確認して、来た道を逃げ戻った。
足跡のスタート地点にまで戻って来て、彼は蒼褪めた。砂地の真ん中から突然始まっている自分の足跡。これを警察が見れば、犯人は満潮の時から崖にいて、 だからその時間からずっとアリバイのない人間が犯人だと思い定めるに違いない。足跡を消すか?でも消した行為がその動機を探られることになるかもしれない。 この窮地をどう脱出するか。できれば、自殺に見せかけられれば、それに越したことはない。自分の足跡を見る。砂地に降り立つ時、海に向かって垂直でなく水平に降り立っていた。 それを見て、足跡のリレーを思いついた。
勝尾は携帯電話で親友の浜地に助けを求め、計画を説明した。
浜地は海乃幸の死亡推定時間を外すため一時間待って行動を開始した。
その間に海乃幸の死体が発見される危険性もあったが、これは一か八かだった。どの道、事件が殺人と断定されてしまえば、四人が疑われるのは目に見えており、 そうなったら勝尾は自首するつもりだった。助かるには、不可能状況を作り出し、自殺に見せかけるしかなかった。
浜地は、勝尾と同じサンダルを履き、よろず屋が帰るのに合わせて海の家を出て、足跡のない砂地に入って行く姿を目撃させた。
浜地は歩幅を調整しながら砂地を進み、勝尾の行きの足跡に自分の足跡をつなげて止まった。勝尾は一歩だけ前に進み、自分の背中と浜地の胸が合わさるようにして、 一挙に浜地を自分の背中に背負った。大相撲同好会出身ゆえの怪力であった。
そして、砂地を海の家にまで戻り、勝尾は海乃幸の死体と現場の状況を浜地に教え、浜地は「海乃幸の死体を見つけたっ」と叫びながら、海の家に駆け込んだのであった。
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