2009年1月5日月曜日

第3回(2002.12.15~) テーマ:見えない

「紅一点の死」保山宗明玉
「見えるものと見えないもの」辻本真孝
「クリスマスの死」abiko masahiro
「見えない人」池上宣久
「松虫草」丹羽





「紅一点の死」 保山宗明玉


□問題編

(作者注 この作品にシャム双生児やペットは出てきません)

(コステロの手記)
 今年の合宿は一触即発のムードが漂っていた。
 女1人に男4人というバランスがよくないのだろう。男達は全員、1人の女をひそかに狙っていたのだ。
 合宿はシーズンオフのホテル(とは名ばかり!)を借り切って行われた。
 現地までの道中、ジミーは相変わらず相棒のハーヴェイと話し込んでおり、残りの者は百万円あったら何に使うか、等たわいもない会話で盛り上がっていた。
 ホテルに着くなり、ジミーが玄関に一番近い部屋を占領して宣言した。
「ここは俺とハーヴェイの部屋にする。いいな」
 いつもジミーは勝手だ。ハーヴェイも忠告のひとつくらいすればいいのに。
 残った者はくじびきで部屋割りを決めた。
 マリリン・モンローは離れに一室だけあるコテージに入ることに決まった。あとは本館のそれぞれの部屋に1人ずつ分かれた。
 本館は平屋で2階も地下室もない。唯一の出入り口である玄関を入るとすぐにジミーとハーヴェイの部屋、以下、俺(コステロ)、アボット、W.C、共同浴室、食堂と並び、空室はない。 各部屋の出入り口はまっすぐな1本の廊下に面しており、廊下の窓からはモンローの入るコテージ全景が正面からよく見えた。本館とコテージは10メートル程離れている。
 夕食後、午後11時に全員部屋に戻った。夕方から降り出した雨にうたれながらモンローは駆け足でコテージに戻った。あと1時間待てば、雨もやんでいたのだが。
 俺は自室のドアを開け放して、誰か入ってこないか、と待ち受けた。実は俺は夜ばいを期待していたのだ。 男の部屋に女が忍んでくるのは夜ばいの逆パターンだし、最も怪しいのはモンローとわが相棒アボットの組み合わせなのだから、俺にはあまり可能性がないのかもしれないが。
 眠気ざましにヘッドホンで音楽を聞きながら、部屋の中から廊下と廊下の窓から見えるモンローのコテージをずっと見て待つことにした。
 結局、一睡もせずに朝を迎えてしまった。廊下もコテージも誰1人として出入りしなかったのだ。
 午前9時過ぎ、朝食の時間になっても全員が揃わない。
 俺はコテージに足を運んだ。昨夜の雨で足元がぬかるんでいる。何も跡のついていない泥の道に足跡をつけながらコテージにたどりついた。 コテージには雨がやんだ後何者かが出入りした跡はいっさいついていなかった。ドアには鍵がかかっていなかった。
「モンロー!朝ごはんだぜ」
 ドアをあけて中に入った俺は、モンローの変わり果てた姿を発見した。

「何だ、こいつらの名前は」
「その手記に興味が湧きましたか、博士。映画マニアのサークルですよ。ひいきのスターの名前を勝手につけて呼び合っているんです」
「女が殺されたんだな」
「鈍器で殴り殺されていました。即死です。犯行は自分の部屋の中で、夜中の2時頃だったそうです。犯人は残りの男4人の内の1人でした」
「待て。犯罪学博士の私が推理して当ててみせよう。このコステロの手記は信用できるのか」
「はい。コステロこと小田三郎は犯人ではありませんし、手記はあいにくと途中で終わっていますが、読んでいただいた部分の内容はすべて事実でした」
「マリリン・モンローはハリウッドのセクシーシンボル的女優だな。アボットとコステロは凸凹コンビのコメディアン。 ハーヴェイはハ-ヴェイ・カイテルかな。ジミーは。ええと、ジミーはジェ-ムス・ディーンでいいのかな?」
「えっと、ジミ-こと鷲尾一郎は、ジェームス・スチュアートだそうですよ」
「なるほど。それでわかった」


□解決編

「何がわかったんですか」
「ハ-ヴェイの正体だよ。合宿の人数とホテルの部屋数があっていないので、1人、妄想か架空の人間がまじってるんじゃないか、と思っていたが、それがハーヴェイだ。 女を狙っていて、勝手なジミーが自ら相部屋を買って出たところでおかしいと見抜くべきだったな」
「で、ハ-ヴェイは何者だったんです?」
「J・スチュアートの主演映画に『ハーヴェイ』というのがある。主人公の男にだけ見える人間大のウサギの名前がハーヴェイ。ジミーは大ファンの俳優の役柄をまねていたってわけだ」
「そうですか。これでわかりました。犯人が誰なのかもわかったのですか?」
「ああ。推理してみよう。ちょっと疲れたので、温泉で続きを話そうかな」
 犯罪学博士はオフを利用して、温泉ホテルに休養にきていた。後輩が経営しているホテルだ。
 そのホテルでかつて起こった事件を、犯罪研究好きの博士におみやげがわりに語っていたのだ。手記のコピーまで用意して、もてなしは抜かりない。
 2人は、室内にあるユニットバスは使わず、温泉が堪能できる共同大浴場につかりながら、会話を続けた。
「それぞれの名前を、ひいきのスターからとっている、ということは、女優の名前を名乗っている人物が、必ずしも女性とはかぎらない。モンロ-は女でないのかもしれないんだ。 コステロの手記によると、モンローとアボットの仲を疑っていたのだから、どちらかが女で、被害者なのだろう。モンロ-のコテージの周囲には誰も出入りした跡がないのだから、モンローは被害者じゃない。 アボットの方が女だ。コステロはヘッドホンで音楽を聞いていたので、隣室での凶行に気付かなかったんだ。そうそう、コステロが見たモンローの変わり果てた姿は、寝起きのだらしない姿だったんだろうよ。 あとは、アボットの部屋に行けたのは誰なのか、ということだけだな」
 博士は温泉をぐびっと飲んで、続けた。
「犯人はアボットに夜ばいをして、拒否されて逆上し、殺してしまった、というのが、真相かな。コステロが廊下を見張っていて、誰も見なかったのだから、犯人はモンローでもジミーでもない。 コステロ自身も犯人じゃない、というんだから、残りは1人じゃないか」
 温泉をもう1リットルほど飲む。
「ハーヴェイが妄想ごっこのウサギだとすると、女1人、男4人の数があわない。でも、空室はなかったんだ。そこがポイントかな。 彼らはここに来る道中、百万円もらったら何に使うか、という話に興じていたという。『百万円もらったら』というのは、残る犯人のひいきのスターが主演している映画のタイトルなんだ。 内容もズバリ、百万円を手に入れた人間はどうするか、というシチュエーションでストーリーが展開している。犯人は、アボットの部屋の隣にいた、ハリウッドの喜劇俳優W・C・フィールズだ」
「なんでもわかってしまうんですね」
「これで正解かな。ところで、君はどうして、こんな警察が保管しているはずの手記とか資料を持っているんだ」
「警察ざたにはしていないんですよ。私も博士の後輩ですよ。簡単な検屍とかできます。それに、警察には来てほしくない理由がありましてね」
 博士はその理由とやらを考える気にはなれなかった。




 
「見えるものと見えないもの」 辻本真孝


□問題編

冷たい風は今日も肌に痛い。冬が本格的にやって来たようだ。
私はこの歳になって朝の匂いが好きになった。雨さえ降らなければ、毎日散歩に出かける。
何らいつもと変わらない朝だ。
すれ違う人の靴音も、挨拶も、ラジオから流れるアナウンサーの声も、いつもと同じ。
マンションの前まで帰ってきて、白杖に何かが当たった。
「あ、すみません。こんなところに車を置いておくと邪魔ですよね。すぐ動かしますから」
若い声の男は言った。
周りにも沢山の人が居るようだったので、何かあったのか尋ねた。
「ええ、このマンションで殺人事件があったんですよ。ここの方ですか?」
私はうなずいた。
男は警察であることを名乗って、続けた。
「305号の増本さんが死んでいるのを、恋人の立川さんが見つけたんです。どうやら殺されたようですね」
増本というのは、いつも同じブランド物で身を包んでいると聞いたことがある。服装はもちろん、下着からバッグ、香水までそろえているらしい。
実際に会ったこともあるし、毎朝すれ違ってはいるのだが、私には興味のないことだった。
「昨日一旦自宅に帰った立川さんが、朝早く忘れ物を取りに寄ったところ、増本さんの死体を発見したそうです」
私は部屋にまだ死体があることを確認して、若い声の男に言った。
「立川さんが嘘をついてるんじゃないですか?」


□解決編

増本恵子の部屋から立川慎也が帰ったのは、午後11時頃。
そのすぐあと、会社の同僚で近くに住む安藤京子が訪れている。翌日の仕事の打ち合わせできたらしい。
仕事の話自体は1時間ほどで済ませ、あとはブランドの話で盛り上がっていた。
安藤もブランド物が好きなのだ。
正確にいうと、安藤の影響を増本が受けていた。そして憧れも持っていた。
増本の持っているブランド物の多くは、安藤からの借り物であった。
盛り上がっていた話もしばらくして返す返さないのいざこざとなり、増本の振り回したバッグが安藤の頭を直撃して運悪く命を落とした。
増本はこれを機会に、安藤の物を全て自分の物にしようと考えた。
死体を動かすよりも自分が安藤になることの方が容易である。憧れの安藤になれるのだから都合がいい。 あとは、立川に死体が増本であるということを証言させ、自分は安藤になるための準備をするだけだ、と。

「そんな簡単にはいかないですよね。他人と入れ替わるなんて」
事件の概要を話しに、私を訪れてくれた若い声の男・平居巡査は言った。
「あらかじめ計画していたならともかく、思いつきだったんでしょう」
私は、久しぶりの来客を楽しんでいた。
「先の見えないことをするとはねぇ」
「目が見えていても現実を見ることは難しいんですね」
沈黙をうち消すように平居は言った。
「どうして立川が嘘をついてると分かったんですか? 調べれば分かることですが、あの時の話だけで分かるとは思えないんですが」
「自信があったわけじゃないですよ。もしかしたらそうかと思っただけです」
「どうしてです?」
「あの朝も、増本さんとすれ違ったんです」
「見えるんですか?」
「いえいえ、匂いですよ。香水の匂い。
もちろん同じ香水を付けている人はたくさんいるんでしょうが、私は増本さんしか知りませんから。だからそう思っただけです。
でも確かだったようですよ。翌日からはその匂いは嗅いでいませんから」
「見えなくても見えているんですね」
平居はぽつりと言った。




 
「クリスマスの死」 abiko masahiro


□問題編

 生徒会長の一宮が一部男子生徒たちからやっかみ半分に嫌われてはいたのは事実だが、その敏腕振は誰しも認めるところではあった。 対立候補たちがいい加減で実現不可能な公約をぶち演説を行ったなか、ただ一人、実現可能なそれでいて魅力的な公約を掲げた彼は、半年前の生徒会長選挙で圧倒的な票を集め選出された。 2学期終業式後の体育館に巨大ツリーを立て、みんなでクリスマス・イブを祝うというのもその公約のひとつだ。 そしていよいよ今日はその終業式の前日、日曜日。午後から生徒会役員をはじめ、多くの生徒が体育館に集まり、出入りして準備に勤しむ予定になっている。
 一宮が学校に提出したプランはこうだ、

1)ツリーの材料は建築用の足場を基本枠とし、そこに切り抜いた発砲スチロールを葉に見立てて飾り付けていく (建築用の足場は、一宮と同じ2年B組の二村に手配してもらった。二村の実家は土建屋だった)。 補強として、体育館天井の三箇所のフックから吊り下げたワイヤーでツリーの頂点部分をつなぎ吊り下げる形にする。ツリーの土台部分には鉄骨の足がついているが、念のために。 ワイヤーを引っかけるフックは普段は垂れ幕や公式行事の際の吊りものに使うものなのでその強度は完全ではないことを留意しておく。
2)スチロールを美術部にペイントしてもらう。指揮は美術部員で生徒会役員の三河。ペイントされた葉は針金で鉄骨に括りつけていく。
3)飾り付けは有志で行う。希望者は飾り付けに相応しいと思われるものを持ち、日曜12時に集合。飾り付けの指示責任者は生徒会副会長 四条カオルと1年生書記 五木。
〇 ツリーの概要 高さ5.6メートル
〇 総重量はスチロール装飾前の試算で310キロ
  使用発砲スチロールは畳大16枚

 日曜日の朝、一宮と同じクラスの六田は、一宮から個人的にヘルプで来てほしいと要請を受けていた。 六田は生徒会役員でも体育会クラブの部長職に就いてもいないが、一宮とは気が合い、コンビとしての働きぶりは校内でも知られている。 生徒会外の一宮の右腕、密かにそう呼ばれてもいる。悪い気はしない、そしてもう一人、一宮が頼りにしている男がC組にいる。 その男も今日は来るだろう、六田自身はあまりそいつと親しくはないのだが、悪い印象はない。 六田は行動派として頼りにされ、そのもう一人はブレーンとして一宮に頼りにされているようだった。名前を箱崎という。
 9時に六田は学校に着いた。校門のところで一宮と会った。
「悪いね」と一宮。
「いいって。どうせ昼からは来るつもりだったんだし」
 二村んとこの健材を運びこんだりするのか、と訊ねると、いや、と一宮は首を振った。
「それはもう出来てるんだ。二村ん家が仕事始める前の方が都合いいってんで6時から来て組み立てた」
「ヤルね」
「やっぱプロは違う。思ってたよりも立派だぜ。もうじき三河が美術部員を連れて来るから、それ手伝ってくれよ」
「判った」
 と、その前に、と一宮が早速、六田に最初の頼み事をする。
「職員室いって用具室の鍵、借りてきてくれないか。オレ、このまま体育館に先、行ってるから」
そういって一宮は走り去る。その背中に六田は「誰が来てるんだ」と声を掛けた。
「四条と五木、それから七瀬も」
「二村は?」
「午後からまた来るって!」

 鍵を受け取り体育館にむかう。途中で四条と五木が前からくるのと会った。よお、と声をかける。おはよ、と四条。おはようございます、と五木。 職員室まで長机を取りにいく、と四条はいった。手伝おうか、という六田に四条は「一宮くんはきっと別の用事を頼むつもりしてるだろうから行ってあげて」といった。 それもそうだと思い二人とはそこで別れ体育館にむかう。
 到着、横開きのドアを開けてなかへ入る。しんとした体育館のなかに鉄骨で組まれた巨大なツリーが立っている。 ツリーといってもまだ飾り付けられてはいないから、ツリーの骸骨とでもいったところか。一歩一歩近づいていく。その巨大さは近づく程、際立った。 スゲえと思わず声が出る。それからふと気づいて辺りを見回した。誰の姿もない、一宮、それから七瀬は? 
「六田くん!」
 呼ばれた。声はするが姿は見えない。見回す。
「ここ、上」
 上? と顔を上げる。体育館のほぼ中央に立つツリーから10メートルほど先に演壇がある。その演壇? 違う、そのさらに上、2階に当たる部分に小さい小窓が開いていた。 放送室だ、演壇のマイク放送をミキシングする小部屋がそこにあった。そこから七瀬の可愛い顔が覗いている。 「おう!」と手を挙げて挨拶したとき、七瀬の顔がただごとではないのに気づいた。悲痛に歪んでいるように見えた。「そこ、見て!」
 七瀬が手を伸ばして指しているのは、六田がいるのとはちょうどツリーをはさんで反対側だ。回り込む。一宮が倒れていた。
 頭から血を流して。
「一宮!」
 駆けより、揺さぶり起こそうとしてやめる。流れている血の量が尋常ではなかったから。目がうつろだ。
「どうした?」
 一宮を動揺させまいと落ち着いて訊ねた。
「……何か、見えないものが、突然」
 それが一宮の最後の言葉となった。

七瀬マユミの証言「上からバランスを見るため放送室に上がってくれっていわれたんです。それで朝からずっと上にいました。 四条さんたちが出ていったとき、一宮くんはわたしのいる放送室の正面にいて、わたしに背をむけて立っていました。 ちょっと目を逸らせて、ふと見たら、もう一宮くんが倒れていて、……」
四条カオルの証言「わたしと五木くんが体育館を出たとき、確かに七瀬さんは放送室にいました。 あそこへの出入りは体育館の外からしか出来ませんから、そうですね、ツリーのところから放送室まで行くとなると10分はかかります」

 一宮の死因は鈍器のようなもので強く殴られたことによる頭蓋骨挫傷。
六田ヒロシの証言「周りには何もありませんでした。最初見たとき、ツリーに上っていて転落したのじゃないかと思いました。鉄骨が落下してきた?  いや、周りには本当に何も落ちてなかったです」


□解決編

 終業式後のクリスマスイベントは中止となった。「故人の遺志を尊重して、……」と四条カオルたちは主張したが勿論通らなかった。 警察が現場検証のために封鎖したのだ。終業式は急遽、校庭で行われることになった。翌日から冬休みになり、誰もが学校から遠ざかった。 何人かの胸のうちには暗い影を落としたまま。
 一週間が過ぎようとしていた。あと二日で今年も終わりだ。ツリーは閉ざされた体育館のなかにそのまま残されている。 クリスマスも終わったというのに、それは本当に忘れ去られたもののように。まるで死んでしまったかのように。
 その寒い日の午後、六田はなんとはなしに、本当になんとはなしに学校を訪れた。夕方から雪が降るだろうとテレビの天気予報はいっていた。 吐く息が白く染まる。スピーチバルーンのようだ、と思った。
 しんと静かな校庭を横切り体育館にむかう。
 依然として警察に閉鎖されたままだ。ただ柵の入った窓から中を覗くことは出来る。ひょいと背を延ばして中を見た。ツリーがただそこにある。 一宮が倒れていた場所はちょうど反対側になるので、ツリーの陰になって見えなかった。それでもまざまざとあの日の光景は六田の脳裏に蘇った。 一週間の間、警察に呼ばれて何度も思い出さされもしたのだ。
 ……何か、見えないものが、突然。
 警察はまだ一宮を死に至らしめた凶器さえ特定できていない。重くて堅いもの、角のあるもの、ということだけが傷つけられた頭蓋骨から判っている。
 人の気配に気づいて六田は柵から離れた。
「やあ」
 と学生服にコートを羽織った箱崎が、右手を上げて挨拶を送ってきた。やあ、と六田も答える。
「偶然?」
「らしいね」
 誰かに呼ばれてきたわけでもない、なんとなくだ、と箱崎はいった。偶然だ、と六田は頷いた。
「一宮のことが気になってね」
 そういうと箱崎が、ああ、と頷いた。
「警察はまだ何も判っちゃいないらしい」
「……」
 その口ぶりに刺がある。いや、刺というより、何か物悲しい響き。六田は箱崎の目をじっと見た。 箱崎はそれを躱して、先刻まで六田が覗いていた柵のある窓からなかを覗き込んだ。その横顔を見ながら六田は、箱崎の次の言葉を待った。
「一宮を殺したのは七瀬だ」
 と箱崎はいった。
「まさか」
 六田はあの場面を頭のなかで再現してみる。一宮が倒れていたところから10メートル程離れた、それも二階の小部屋。放送室の窓から覗いていたまだ1年生の少女。 あの悲痛な顔、声、それに何より、……。「無理だ」と六田はいった。
「あの放送室から一宮が倒れていたところまでは、四条が体育館を出てからオレが来るまでの短い時間では往復できない」
 それに、と続ける。あの小部屋の窓から一宮目がけて何かを投げつけたのだとしても、そんなものはどこにも落ちていなかった。 それにあの非力な女の子の力では、……頭のなかに断片的な打ち消しの可能性が次々と浮かんでくる。
「無理だ」と六田はもう一度いった。
 箱崎はそれには答えず、ただ悲しそうな表情をその目に浮かべていた。無理ではないのだ、と六田は知った。 どうしてかは判らないが、七瀬が殺したのだ、その根拠を箱崎はつかんでいるのだ、と理解した。
 箱崎が柵のむこうの体育館を目で示す。倣うように覗く。
「見ろよ」と箱崎がいった。その声はひどく優しかった。
 箱崎の指すところを見た。それは天井の方、ツリーを支えるワイヤーが繋がれたフックだった。
それは、垂れ幕や公式行事の際の吊りものに使うものなので、等間隔でいくつも並んでいた。
「あのうちのひとつ、多分ツリーと演壇の中間地点にあるどれかだが、一宮を殺害した犯人はあらかじめそのフックに紐をかけておいた。 はっきりといえば、犯人は、放送室から延ばした紐をフックに通しまた放送室に引き入れておいたのだ」
 振り子だ、と箱崎はいった。
「そうしておいて一方に重い鈍器状のものを括りつける。体育倉庫にあった砲丸でもいいし、放送室にあった旧式のステレオスピーカーでもいいだろう、 とにかくあの小部屋の小窓から外に出せる大きさのもので、尚且つそれなりの自重をもつものだ。あとは判るだろう?  四条たちが出ていったあとで、一宮をあらかじめ確かめておいたポイントに立たせ、タイミングを見計らって死の振り子にかけた手を離せばいい。 放送室の位置は床より高いので、それは振り下ろされる勢いで一宮の頭めがけて落ちて行くだろう。七瀬は、一宮が放送室に背中をむけて立つように上から指示を出したのだ。 そして振り返ったときには、……」
 六田はああ、とそのとき理解した。
 あの言葉。何か、見えないものが、突然。
「一宮にはそれは見えないものだった。猛スピードで落ちて来る凶器。きっと最後まで、一宮は自分の身に何が起こったのか理解できなかったに違いない」
 箱崎の言葉を聞いて、六田は、ああ、そうだな、とぼんやりとした口調でただ頷いた。




 
「見えない人」 池上宣久


□問題編

登場人物表
 水溜:関西学院大学十種競技同好会OB。得意種目やり投げ。
 橙田:関西学院大学十種競技同好会OB。得意種目円盤投げ。
 桃木:関西学院大学十種競技同好会OB。得意種目110mハードル。
 群青:関西学院大学十種競技同好会OB。得意種目走り幅跳び。
 栗具:関西学院大学十種競技同好会OB。得意種目棒高跳び。
 諍屋:関西学院大学走り幅跳び同好会OB。通りすがりの名探偵。

 友人の田村緑に頼まれた、グリングリンのお見合い立会い―品種改良された二足歩行型セントバーナード“メメアッコ”を彼はお気に召さなかった―の帰り道、 突然の通り雨にあった諍屋は、道端の大きな木の下で雨宿りすることにした。
 舗装道路に沿って高さ四メートルの金網があって、その向こうが森林公園になっている。金網の向こうに並行する砂利道があり、 その道に囲まれて起伏のゆるやかな広場があって、真ん中に一本の木があった。その根元に男が一人背中を向けて膝を抱えて座っている。 手前が小高くなっているので道路からは普通には見えないが、グリングリンの背中に乗っている諍屋には見えた。土砂降りの雨の中、身じろぎもしない。 諍屋は雨が止むまでを、その男の背中を見つめて過ごした。

 十五分ほどして雨が止み、出発しようとした諍屋は、人の争う声を聞いた。道路の反対側は高さ二メートルほどの生け垣で、その向こうに二階建ての山荘があった。
 諍屋は生け垣の隙間を抜けて敷地に入った。山荘の一階の一部が吹き抜けになっていて、バーベキューができる設備があった。 そこで、酔っ払った男が手にナイフを持って歩もうとするのを、四人の男が止めていた。
「あの野郎をぶち殺してやる。あいつが茜を殺したも同然じゃないか」
「落ち着けよ。水溜。今さら言ったってしようがないじゃないか」
 危ないと判断した諍屋は男に近づいた。男は、近づくグリングリンの巨躯に驚いて一瞬動きを止めた。 素早く地に下りた諍屋は、男の喉元に指を当てて血の流れを止め、失神させた。

 男―水溜を、山荘の二階の部屋に運び上げてから、諍屋はバーベキュー場で四人から事情を聞いた。
「僕たち関学の十種競技同好会のOBで、卒業以来五年振りの集まりでここに遊びに来たんです」
 一人が胸に「KWANSEIGAKUIN」と書かれたトレーナーを着ていた。何故「KANSEI」でなく「KWANSEI」なのか、 と同じく関学のOBである諍屋の胸に永年の疑問が湧く。
 主に話をしてくれたのは、元会長だという橙田だった。
 水溜が言っていた「あの野郎」というのは、さっき諍屋が見た雨の中じっと座っていた男のことだった。山荘の同宿者で、初めて会った男。 あえて名乗り合わなかったので、名前も知らないその男は、五年前に森林公園の中で恋人を死なせていた。 病弱だった彼女を盗んだ車で連れ出し、追いかけてきた親族を振り切って一日遊んだ結果、心臓を患っていた彼女は突然その動きを止めた。 遺族の怒りは大きく男は墓参りを許されなかった。仕方なく彼女が息を引き取った場所に生えていた木を墓碑に思い定め、毎年命日に訪れていたのだった。 そんな話をして、男は森林公園に向かったと言う。
 その後で、橙田たちは気がついた。男の話―車を道に横に停めて親族を振り切ったというエピソードが、日時、車種、場所、彼らの記憶にピタリと当て嵌まったのだった。 五年前、同好会のメンバーで彼らのアイドルだった京本茜が頭を打って死んだ。すぐに病院に運び込めば助かったかもしれないが、 道に放置された車のために救急車が入って来れなかった。その車を放置したのが、その男だったと気がついたのだ。
 そこまで聞いて諍屋は、水溜が「あいつが茜を殺したも同然じゃないか」と言った意味を理解した。
 そんな話を聞いている内に三十分ほどの時間が経ち、突然水溜が、山荘の玄関から出て来て言った。
「今、あいつを殺して来た。俺は透明人間となって、あいつをナイフで刺し殺したのだ」

 橙田以外の三人は時々席を外してはいたが、山荘から水溜は出て来ていない。皆は相手にしなかったが、諍屋は胸騒ぎを感じた。
 グリングリンに飛び乗り、さっき雨宿りした木のところに戻った。
 金網の向こう、さっき座っていた場所に、男がうつむけに倒れているのが見えた。背中にナイフが刺さっている。
「ハイヤァッ!」諍屋は拍車をかけた。
「ガオ~ン」グリングリンは金網沿いに走り出した。
 すぐに門があって、走り抜けた。後ろから、「こらっ、今日は休園日じゃっ」という門番の声が追いかけてきた。
 金網の内側に廻り込み、砂利道を走った。山荘が金網の向こうに見えて来たところでグリングリンを停めた。道から広場の奥に向けて一筋の足跡が残っていた。 諍屋はその足跡を踏まないように並行して歩き、男の死体にたどり着いた。足跡は男の横で少し乱れ、広場の向こうにまた続いていた。 来た道を振り返ると、足跡の延長上、金網の向こうに山荘の二階が見えた。
 男が前に投げ出した右手の先の地面に、カタカナの文字が書きなぐられていた。ダイイングメッセージ?それを見て、諍屋は目を見張った。
「グリングリンだって?いや違う。グリングリだ。いやちょっと違うか」

 警察が来て、捜査が始まった。
 男の死因は背中の刺傷で、手でナイフを刺してこじった跡があった。そのナイフが栓をした形になって出血は少なく、 即死しなかったのでダイイングメッセージを書く時間は充分にあったと思われる。
 死亡時刻は、諍屋による死体発見の約十五分前だと推定された。
 現場の広場は砂利道に円に囲まれていて、犯人が残したと思われる足跡は広場を縦断してまた砂利道に戻っていた。 足跡は山荘備え付けのサンダルのもので、事件発生時、関係者は皆このサンダルを履いていて、個々に差異はなかった。
 ナイフもまた山荘の備品だった。
 警察は公園内を徹底的に捜索した。しかし、何者も隠れていなかった。この日は休園日なので人がいなくて当然で、被害者だけは、 顔なじみになっていた門番が特別に入れていたのだった。周りを囲む金網にも何者かが乗り越えた痕跡はなかった。

   公園のたった一つの出入り口である門はずっと開いていて、現場に犯人の足跡も残っていた。犯人は門から入って広場を縦断し、 その途中で被害者を殺して門から出て行った、とすれば何の不思議もない事件だった。しかし、その状況を奇妙に捻じ曲げたのが、門番の証言だった。
「公園の中に入ったのは被害者だけじゃ。人を殺めるような怪しい人間は一人も門を通っておらん!もし、おったとしたなら、そいつは透明人間じゃ!」


□解決編

「じゃぁ先生、水溜さんが自分が透明人間になって被害者を殺したって言って、門番も同じことを言っているのだから、それが真相なんですね」
 諍屋は、助手の天崎の練習台として我が身を投げ出しながら、ここは突っ込まざるを得なかった。「それはないやろ」
 意外な関西弁の反撃に天崎は途惑った。
「水溜君については考えなくて良いです」諍屋は説明を続けた。「彼は泥酔し、夢の中でナイフを使って被害者の男を殺していたのです。 二階の部屋で目が覚めた時に、彼は窓から現場に倒れた被害者を見てまるで夢の続きのように感じ、この犯罪を成し遂げたのは自分だと思い込んでしまったのでした。 僕が死体を見つけた時金網の向こうに山荘の二階が見えましたから、逆に二階の窓から死体が見えたはずです。 それで、山荘を出て被害者をナイフで刺して殺した、と発言できました。
 自然公園の中に入ったのは被害者だけで、金網を越えて出入りした者はいず、公園内には何者も隠れていなかった。 そうすると、広場に足跡を残し得たのはただ一人、被害者しかありません。
 犯人が広場の外から中に入り、男を殺して外に出たのではない。あの足跡はまず、出て行ってるのです。その後で入ってる。 ただその入った足跡の終着点が、その前に出て行った足跡の出発点に偶然つながった、というか重なってしまったために、 その足跡は連続したまっすぐな足跡に見えてしまっただけなんですよ。まず一筋の足跡が事件の発生に先行して広場に残りました。 被害者も山荘の宿泊者でしたから足跡と同じサンダルを履いていました。
 いくら恋人を偲ぶといっても永遠に偲ぶわけではありません。充分に偲びきって被害者は満足して立ち上がり広場を出て行ったのです。 この時、広場の真ん中から外へ出て行った足跡だけがまず残る」
「でも門番の監視がありますから、犯人は中に入れなかったんですよね」
「それは被害者の行動もまた縛っています。被害者は外に出れません」
「犯人は公園の外にいて、被害者は公園の中にいて、二人の接点がないじゃないですか」
「接点はありました。広場を囲む砂利道と、僕が雨宿りした舗装道路とは金網を境に並行していたのですから」
「あ…」
「犯人は金網越しに被害者の背中をナイフで刺しました。刺された被害者は犯人から逃れようと金網から離れた。離れた足が広場に向かった。 同時に自分の死を悟ったのでしょう。考えることは死んだ恋人の墓碑です。そこを目指し、辿りついて力尽きた。ここで足跡がつながりました。 もし先の出て行った足跡がなければ事件の真相は一目瞭然だったはずです。また背中のナイフが栓をした形になって出血がほとんどなかったのも真相の理解を阻害しました」
「なるほど。それで事件の不思議は解明できましたね。あとはダイイングメッセージ『グリングリン』です」
「最初そう見えて驚いたんだけどね、よく見ると最後の『ン』は書かれてなかった。それに一つ目の『グ』に濁点がない。だから『クリングリ』と読みました」
「クリングリ…。そんな名前の人いたかな。栗具さんの名前が近いか」
「彼らは互いに名乗り合いませんでしたから、被害者もまた犯人の名前を知っていたはずがありません。 ダイイングメッセージは犯人の名前を表わすのでなく、犯人のある特徴を示していたのです。僕はもう一度じっくりダイイングメッセージを見直しました。 そうすると別の文字に読めてきました。『ク』と『ン』はそのままでいいです。一番目の『リ』は、二画目が大きく湾曲していました。 本当は一画目と二画目は接していないといけないのですが、死の間際に書きなぐられたその文字は離れてしまっていました。これは『ワ』と読むべきなんです。 『グ』は逆です。よく見ると一画目と二画目の接する部分が十字に交わっています。これは『ガ』です。 最後の『リ』は『ワ』と同じく一画目と二画目が離れてしまっていますが、二画目の湾曲がゆるやかなので、これは『ク』と読めます」
「ということは、ク、ワ、ン、ガ、ク、となるわけだから、えっクワンガク?!」
「僕がたまたまグリングリンと一緒でしたので最初そう読んでしまったのですが、よく見ればクワンガクだったのです。 クワンガク、つまり関学です。彼らは名乗り合わなかったといっても、橙田君は僕に『僕たち関学の十種競技同好会のOB』だとは言いましたから、 このレベルでの自己紹介は被害者に対しても行なったはずです。そして彼らの中の一人が『KWANSEIGAKUIN』と書いたトレーナーを着ていました。 それを見て被害者は耳には『カンガク』と聞こえたけども、正しくは『クワンガク』と発音するのだろうと思い込んでしまいました。 犯人の名を知らない被害者は、何とか犯人の特徴を示すために、『犯人はクワンガクのトレーナーを着ていた男』と書き残そうとしましたが、その途中で力尽きたのでした」
「じゃあ、犯人はただ一人そのトレーナーを着ていた男ですね」
「そうです。したがって犯人の名は」




 
「松虫草」 丹羽


□問題編

あぁ、何故こんな事になってしまったのか。
余計な事をしてしまったから。解っているのにどうにも腑に落ちない気がする。
気がするだけか。

白澤栄三。
道成寺晃と児玉信弘が体当たりをして壊した扉のノブには冷たくなった白澤栄三がぶら下がっていた。

「慶子さんがオメデタでね」
道成寺は叔母・慶子に贈る小さな鉢植えを抱え、助手席に座っている。淡い紫色の花。松虫草だ。
児玉は道成寺の花屋付添兼運転手ついでに数回会った事のある慶子に挨拶をして行くことにした。

白澤邸には祖父栄三、その娘慶子、入り婿実が住んでいる。その日は夫妻の高校時代からの友人の野寺かをりがいた。 二人が到着したとき、栄三はもう自室に篭っていた。児玉は夫妻の好意に甘え、道成寺と共に白澤邸に泊まることになった。
翌日、一階で寝ていた道成寺と児玉は朝八時半に目覚めた。テーブルにはメモが置いてある。
「お父さんへ  実と出かけます。かをりは仕事で朝早く帰ったみたい。晃達はまだ寝てるのでお湯を沸かしておいてあげて下さい」
ポットにお湯は入っていなかった。

栄三は社交的で人当たりの良い、眼鏡とベレーの似合う紳士だったが、昨年、病気を患うようになってから引き篭りがちになり、 ベレーを被り文庫本片手に散歩に行くこともなくなった。几帳面な栄三は日に三度、毎日決まった時間に一階の台所で薬を服用していたが、 今日栄三は朝も昼も二階の部屋から出てくることはなかった。扉をノックしても大声で呼んでも返事はない。異変に気付いた道成寺と児玉は扉を力ずくで破った。

栄三の部屋には内側から丸落しの錠がかかっていた。本棚にある栄三お気に入りの画集が巻数、本の上下に関係なく乱雑に置かれていた他はとても綺麗に片付けられていた。
栄三の部屋に窓は一つ、川岸に面していて採光もよかったが、最近になり「本が日に焼ける」という理由で雨戸は常に閉じられていた。二人が部屋に入ったときも同じだった。

ノブで首を吊った栄三を前に2人は暫く立ち尽くしてた。
自殺。自殺にしか見えなかった。
「何故。吉報を聞いたばかりなのに。」
児玉は不思議でならなかった。
麻紐がくい込んだ首。
「こんなもの、見たくない」
思考とは裏腹に児玉の目は老人の命を奪った凶器に釘付けになっていた。
「あ…」
栄三の首に絡み付いた紐は1本。しかし、よく見ると栄三の首には紐からずれた位置についた「跡」がある。何かで締め付けられたような跡。
「道成寺…」
児玉は無言で突っ立っている道成寺に目を遣る。
「…児玉、なんでこう七面倒な事に気がつくんだ。お前も。」
道成寺は汚物を見るような目で祖父だった「物」を見詰めていた。


□解決編

不幸な愛情。
私は全てを失った。

ただの妄想だ。根拠などない。
気がするだけだ。

死亡推定時刻は朝六時。「目を患い、失明の恐怖から逃れる為の自殺」。人が密室で死亡、他殺でなければ自殺。それだけのことだ。児玉はそう思った。
葬式では、棺に手紙を入れ泣き崩れる慶子さんを支える道成寺の姿が印象的だった。

二ヶ月後、児玉は再び白澤邸にいた。
「道成寺、教えてくれないか。あの二重の跡、そして何故栄三さんは死ななければならなかった。」
道成寺は栄三氏が愛用していた安楽椅子に座り、窓の外を眺めていた。
そして目線を児玉に移さず、こう話した。
「かをりさんと実さんは不倫関係にあった。かをりさんは祖父に『見間違い』で話し掛けられ、その内容が自分達を指している、つまり関係がばれたと思い込み…」
「それは…慶子さんと見間違えられた?」
道成寺は答える代わりに続けた。
「5時位だろう。かをりさんは偶然か必然か祖父の部屋に行った。その時間は祖父の約束の時間でもあった。祖父はやって来たかをりさんを『見間違え』て話し掛けたんだ。 それが多分かをりさんにとって禁句だった。そしてかをりさんは発作的に祖父の首を絞めた。動かなくなった祖父を見、かをりさんは殺してしまったと思い込み逃げた。 その後目覚めた祖父は鍵をかけ『慶子さんを庇い死に直した』。」
「禁句って…まさか、かをりさんも妊娠…?」
児玉の独り言のような問いかけにも、やはり道成寺は答えなかった。

だが、二人きりで、栄三氏はかをりさんに殺意を抱かせるような言葉を慶子さんに言うつもりだったのか? どちらからの約束にしても、早朝にするということは皆に知られたくなかったからじゃないのか? ならば実さんと同じ寝室の慶子さんが実さんに気付かれぬよう部屋を抜け出すのは…危険だ。同居しているのだし実さんのいない昼間に話をすればいい。腑に落ちない。

児玉は思った。だが、そのときは何故かそれを道成寺に言うのが憚られた。道成寺の普段以上に冷たい目と、まるでその現場を見てきたかのような口ぶりのせいだったかもしれない。

ふと、道成寺の口許が緩んだ。川岸で遊ぶ子供を見ている。
数ヶ月ぶりに開け放たれた窓から吹き込んだ風に、机上の松虫草が揺れている。

児玉は何となく本棚の植物の画集を手にした。氏が生前気に入っていたもので、花言葉なども詳しく書かれていた。松虫草の頁を開く。
「あぁ」
児玉の溜息は道成寺の耳に届くには余りに小さ過ぎた。

「必然」だ。かをりさんは指示されて行った。彼女に始終黙っているよう指示出来ても、それを守るか、また栄三氏殺害未遂までは計算出来ない。 でも彼女の禁句「妊娠」に関する事が話されるのは解っていたから「試してみた」んだ。誰か「失う」のを期待して。その結果に過ぎない。 そして、栄三氏の約束の相手は。栄三氏が庇ったのは。慶子さんの赤ちゃんの父親は。

「児玉」
道成寺の声で、児玉の思考は中断させられた。
「な、何。」
慌てて返事をする児玉に、道成寺は言った。
「慶子さんの赤ちゃんは可愛いだろうね。」
子供の笑い声が聞こえる。

ただの妄想だ。

『誰の子か知ってる』?
『お前は愚かだ』?
『埋め合わせの愛だ』?
栄三氏も。慶子さんも。実さんも。かをりさんも。…道成寺も?幸せを掴めない愛。

根拠などない。

気がつくと、風は画集の頁も捲ってしまっていた。
揺れる松虫草。車の中で大事に道成寺に抱えられて。
児玉は長い間をおいて答えた。
「あぁ、違いない。」
もう子供の声は聞こえなくなっていた。

気がするだけだ。

【松虫草】
日当たりのよい山地の草原に生える2年草。
▽高さ30~80cmで直立し,まばらに長い枝を対生する。花は青紫色で頭状に集まり,直径2.5~5cmになり,周辺部の花は大きく,唇形をしている。 花期:8~10月。分布:北海道・本州・四国・九州。(被子植物 双子葉類 マツムシソウ科)
(花言葉)不幸な愛情・私は全てを失った

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